人権作文2 池田晶子


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今回は人権侵害のネタとして池田晶子さんの文章を取り上げてみたいと思います。「人権」というと、日本では、あるのが当たり前になっていて、よく考えたことがないという中学生は多いでしょう。
 
このような本質的で根源的なテーマの場合は、哲学からのアプローチが有効だったりします。ですから、以前にも紹介した池田晶子さんの本を読んでみるといいかもしれません。
 
ところで、中学生の人権侵害だと身近なところでは「いじめ」があります。
 
とくに最近では、スマホが普及してますから、言葉による「いじめ」、言葉で人を傷つけることが多くなっているように思います。
 
この点に関して、池田晶子さんの文章で次のようなことが書かれていました。
〜ここから引用〜
「あの人の言葉に傷ついた」と、我々は何気なく言いますが、まるで言葉がナイフで、それが 心を切り裂いたかのようだ。
 
しかし、そんな現場、そんな現物を見た人はいませんよね。見ることはできなくとも、しかし人は確実にそれを感じている。
 
ナイフの言葉で心を切られた。心の痛みは明らかだ。
 
この痛みの明らかさの前に、言葉は「しょせん」言葉にすぎないなんて、人は言えないはずですよね。
 
言葉には、人の心という現実を動かすだけの力がある。いや言葉にだけその力がある。
 
〜ここまで〜暮らしの哲学より
 
言葉の力について書かれています。言葉は人を傷つける力があるということを僕らは再認識する必要があります。
 
そのような力を持つ言葉のやり取りを、とんでもなく増やしてしまったのが携帯電話、スマホです。
これについて池田晶子さんは次のように述べています。
 
 
〜ここから引用〜
 

なるほど「用件の伝達」という用途のためには、あれはいまや必携なのでしょう。そして確かに便利なのでしょう。なにしろ、どこにいてもその場ですぐに、大事な用件を伝えられますからね。

 
 しかし、その大事な用件を伝えるのに便利だというこの用途に慣れてしまうと、人は、大して大事でない用件、すなわち大事でない言葉をも、すぐに人に伝えようという癖がつく。
 
つまり早い話が、「どうでもいいこと」を、のべつまくなくしゃべり散らすようになるのではないか。
 
 私は、これは、他愛ないようでいて、大変なことだと思う。
 
言葉というものの存在を、人は甘く見ているけれども、これは大変な間違いであって、言葉というものは、じつは大変なものである。したがって、恐ろしいものである。
 
なぜなら、言葉というのは、その人の存在そのものだからです。 
 
とくに難しい話ではありません。
 
たとえば私たちは、その人がどういう人かを判断するとき その人の話す言葉を聞きますよね。そして、優しい言葉を話す人なら優しい人だと、正しい言葉を話す人なら正しい人だと、こう判断しますよね。
 
これがつまり、言葉がすなわちその人だという、まぎれもない証拠です。
 
言葉がその人を示している、言葉がその人をつくっている、 言葉こそがその人である。それなら、くだらない言葉を話す人は、くだらない人に決まっている。
 
どうでもいいようなことばかり話す人は、どうでもいいような人であるのは、決まっているじゃないですか。 
 
だから言葉は大事に使わないと損なのです。よくよく考え、賢く使わないと、人間は賢くなれないのです。なのに、なんですかその携帯電話、先日電車の中の広告で見かけたのですが、「しゃべり放題何分いくらおトク!」。
 
安いのだから、しゃべらないと損だと言う。つまり、大事でないこと、どうでもいいことを、どんどんしゃべることを推進している。これは、安い人間になれ、馬鹿になれと言っているのと同じだと私には聞こえる。 
 
〜ここまで「暮らしの哲学」より〜
 
 
 
携帯電話の普及によって、力のある言葉は、僕らを傷つけ、馬鹿にさせてしまう。このことは自覚しておいた方がいいことでしょうね。
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