「学び」と「清潔な場」の意外な関係


スポンサーリンク


「家では勉強できない」とよく生徒は言います。

 

その原因の一つに、勉強部屋の汚れが関係しているのかもしれません。

 

私も汚いところだと、なんかピリッとしない感じがあり、どうも勉強や仕事に集中できません。

 

だからこの仕事をやるにあたっては、忙しくても掃除だけはじっくりやっていました。

 

ところが、塾屋の中では、どうやらそういう感覚の人は少数派なのかもしれませんよ。

 

塾に勤めていた頃、人事異動などで教室が変わるとそれがよくわかりましたね。とにかく汚い教室が多かったです。

 

衝撃だったのは、異動先の教室に「雑巾」がなかったことでした。聞いたところ、「2年間机を雑巾で拭いたことがない」とのことでした。

 

いくら給料には掃除が影響しないからってねぇ・・・。感覚がおかしいのでしょうか。「生徒が集まっているから汚くてもいいじゃねーか」という感覚なんでしょう。

 

他にも自分が休みのときにくるスタッフが掃除をしてくれないこともありましたね。

 

「腰が痛かった」「生徒が早く来たからできなかった」と理由をつけては掃除をしてくれません。仕方がないので、自分が休む前日は、授業終了後に掃除をすべてやってから終電で帰宅することもよくありました(終電に間に合わないことが多くその日は車で通うことも)。

 

どんなに忙しくても、掃除は手を抜いてはいけないと思いますね。教室を開けている以上、生徒が早く来るかもしれないですから、それよりもっと早く教室で掃除するのは当然でしょう。

 

先日読んだ本でも、内田先生が学びと清潔さの関係について書かれていました。

以下引用します。

(引用)

うちの道場に股初に書生を採用するとき、 「書生の仕事って、なんですか?」 って訊くから、 「1に掃除、二に掃除、三四がなくて、五に掃除」 って言ったの。 「とにか く道場をピカピカにしておいてね。それが君たちの仕事です」 って。生理的に快適な空間 を作り出すことが「場を作る」っていうことの一番の基本なんじゃないかな。 ・・・汚い場所では(自分の潜在可能性は)開花しにくいとは思う。
 江藤淳が東工大 の教授になったとき、最初にやったのが研究室の大掃除。理系の学校だから、教師たちも 学生たちも研究室の掃除なんかしないわけ。たぶん床とか壁とか相当に汚れていたんだと思う。都立大で僕が助手になったとき最初にしたのが研究室の大掃除だったんだけど、これもすごかったから、東工大の研究室がどれくらいだったかは想像がつく。江藤さんはゼミの学生たちに部屋の掃除を手伝わせて、きれいになってからウェッジウッドかなんかのティーカップを持って来て、自分で紅茶を淹れて学生たちに飲ませた。そういうエッセイ がありました。
 読んだ当時は、こっちも若造だったから、 「何がウェッジウッドだ、格好 つけやがって」 って(笑)。

 「掃除なんて学問と関係ないだろ」 って思ってたけど、やっぱ 長く教師をやるとわかる。学びの場というのは清潔でないといけない。

 それはもう当たり前のことなんですよ。教室の第一条件っていうのは清潔。 汚い教室で知的な営みしようなんて無理なんですよ。・・・清潔な環境に置かれると、身体がそれまでとはまったく違う反応をする。身体の開かれ方が全然違う。


 「家では勉強できない」という子どもについて話していたのでした。

 

 勉強できないときは、自分の部屋を掃除するようにしましょう。

 

 片付けて整理して清潔な環境に置くことで、身体が学びに対して開かれていきます。「家ではやる気が起きない」というのも、勉強する場の清潔さが関係していて知的営みに対して身体が閉じてしまっているということなのでしょうね。

 

 かまなびは「学びと清潔さ」を第一に考えています。私の場合も「かまなび」にいるときの方が、勉強や仕事がはかどるんですね。ということは自宅が汚いということなのか・・・。


スポンサーリンク