映画『かみさまとのやくそく』


 かまなびでは自主上映会のサポートをすることになりました。初回は今巷で話題のドキュメンタリー映画です。

 

公式サイトの「作品解説」によると、

 

「胎内記憶と子育ての実践、インナーチャイルドをテーマにしたドキュメンタリー映画です。

 胎内記憶とは お母さんのお腹の中にいたときの記憶や、その前の記憶のこと。 2~4才の子どもたちが話すと言われています。

 インナーチャイルドとは、あなたの内なる子ども。心の深奥部に潜み、幼児期の体験によって傷つけられたり抑圧されたりしている、真の自己のことです。

 この映画には 音楽もナレーションもありません 。

 しかし、胎内記憶の聞き取り調査や子育ての実践、内なる子どもへの自己肯定ワークの過程を、カメラは丁寧に見つめます。

 研究者、教育者、たいわ士(胎児や赤ちゃんの通訳)が、子ども達と真剣に向き合う姿を先入観なく、ありのままに観てほしい。そして観客ひとりひとりが身近な子どもたちとのつながり方を考える時間を共有してほしい、そんな思いで作られた映画です。

 胎内記憶やインナーチャイルドのこと、 知らない方も、知っている方も、 ありのままの映像から、 ご自分の大切な 何かを感じていただけると思います。」

 

 スピリチュアル系のドキュメンタリー映画なんですけど、こういうブームというのは定期的にやってきますね。

 

 スピリチュアル系のお話との付き合い方について賛否両論あると思いますが、池田晶子さんが『暮らしの哲学(朝日新聞社)』で面白い指摘をしています。

 

 「「自分が存在する」ということはそれ自体が時空を超越している、もしくは時空を内在している出来事なのだと気がつくなら、この世の時系列の物語など、文字通り「物語」でしかなくなります。かつては私は誰それという人物だった、その次は誰それとして生きた。こういうのは、そうだと思いたいその人の思い、物語という解釈です。物語は物語であって事実ではありません。自分の思いの外に出られる人はいないからです。

 物語は物語として聞くから面白いのであって、それを事実だ、本当のことだと思ってしまうのは野暮ですね。神話や童話には客観的証拠がないから事実ではないという人はいません。時々はいますが、そういう人は逆に、客観性という物語に取り込まれている人です。多くの人は、物語は物語として聞き、それが嘘か本当かは問わない。そうは問わずに、そこから真実というエッセンスだけを受け取るでしょう。」

 スピリチュアル系のお話が流行るのは、神話とか童話とかの物語をあまり読んだり、伝えたりしなくなったということなんでしょうね。

 

例えば、子どもを叱るとき、

 

 「悪いことをすると、鬼が来るよ!」

 

これはこれで説得力があります。「悪いことは悪い」としかいえないこともあるからです。そういうときの伝家の宝刀だったりします。

 

 しかし、神話とか童話を読んだり伝えたりしなくなると、なかなかこういうやりとりが通用しにくくなります。

 

 そこで「スピリチュアル系のお話」が登場するわけです。情報化・科学の進んだ現代で、スピリチュアルなお話は、嘘か本当かを問おうにもなんとも言えないからです。

 

 ということは、「悪いことをしているとUFOにさらわれるよ!」これはまだまだいけそう。「昨日、外国の人がさらわれたってテレビでやってたんだから」と。

 

 要するに、ほとんどの人が「それは科学的にどうよ」という基準でしか判断できなくなっているということなんでしょう。

 

 「科学的にありえるかも」と思えるなら事実であると信じますし、「そんなことは科学的にありっこない」判断するなら、それは宗教的だと批判することになります。

 

 でもそのやりとりは池田晶子さんに言わせると、それは物語なんだからナンセンスだよと言うわけです。物語には物語の効用があるわけですから。子ども達には、スピリチュアルの物語もいいですけど、物語をたくさん読んだり、聞かせたいなと思いましたね。それには自分自身がもっと読まないとダメなんですが。反省。

 

 最後に親子のつながりについての哲学的視点を引用して終わりたいと思います。

 

 「彼が私の父親である必然はあったのかなかったのか、人間である私にはわかりません。なのになぜか彼は今生では私の父親であった。だからそれは偶然なのです。一期には一会しかりません。だから出会いは大切にしなくちゃなりません。だって、出会わなかったらかもしれないのに出会ったんだから、やっぱりこれは凄いことじゃないですか!

 親をやっている皆さん、こういう感じ方をしてると、親子関係ははるかに味わい深いものになりますよ。不思議の御縁を大切にしましょう。いずれ我々、宇宙の旅人なんですから。(『暮らしの哲学』より)」